昭和45年1月25日  特別奉修委員   



 先日、あの、泉尾の(泉?)に婦人会、泉尾教会の婦人会長さんと婦人会の副会長さんとの対談が出ております、その中でですね。こういう事が書いてある。お互いにもう人生の締めくくりをしっかりさせて頂く年ですし、自分のためですからねと、その事がこの頃やっと分からせて頂きましたとこうある。私はここを読ませて頂いてから、(         ?        )どうでしょうかね、皆さん、今の事を聞いてから何か感じられないでしょうか。(  ?  )さんという会長さんに、副会長さんに、お互いにもう一生の締めくくりをしっかりさせて頂く年ですし、自分のためですからね、その事がこの頃やっと分からせて頂きました。自分の事ですからねと。私はもう大変ないわゆる発見だと思いますね。信心させて頂くものがですね、本当にもう、例えばそれはどういう事かというと、自分の事のためにですから、自分の事のために一生懸命願うというような事はそうですけどね、私どもがね、今このまだ元気な内に人のお役に立っておかなければ馬鹿らしかちゅうことです。それをようやくこの年、分かりました。もうやっぱし婦人会長さんですから、(  ?  )出ております、若いけれど、もうやっぱりまあ60ぐらいなられるような感じですね。もう、人生の締めくくりと、人生を締めくくらなければお互いがね、もうぼちぼち締めくくらんならんような年になっておると、それで初めて、そこに気付かせて頂いたと。いわゆる馬鹿らしいと。私はね、ここのところをですね、お互いが分かったら、信心がもう生き生きとしてくるでしょうし、いわゆる私は、参らにゃ馬鹿らしか事に(  ?  )ね。御用させてもらわなければ馬鹿らしいことになるし、人のお役に立たなければ馬鹿らしい、もう何十年、長い年はないのだから、もう早うしとかにゃ間に合わん。そんな事を本気で気付いておられるというような感じですね、その一言の中に。お仕事でもやっぱりそうです。食べんならんから働かんならんぐらい惨めな事はないですね。生活のために働きよる人ぐらい、もう本当に、私はこんな残念な事はないと思う、一生。本当にもう、こればこうせにゃ食べられんけん、食べるために一生懸命働きよるなんてん、こげな惨めな話はないですよ。けれども働きゃ働くがたあるから、楽しみを持って働いておると。いわば生活に欲が出てくるとでも申しましょうかね、働かにゃ馬鹿らしいけんという、それならね、まだまだそこに救いがあるですよね、働かにゃ馬鹿らしかというので一生懸命働いてるんですけど。信心でもそうです。(  ?  )おらにゃ馬鹿らしか、お参りさせてもらうならば、御用させてもらわなきゃ馬鹿らしか、人のお役に立たなければ馬鹿らしかという事になってくるんじゃないでしょうか。たった私はその事の中に、何か非常に素晴らしい大発見を、この会長さんはされたなという事を気づきます。お互いにもう人生の締めくくりをしっかりさせて頂く年ですし、自分のためですからねという事。自分のためですからねと。その事がこの頃やっと分からせて頂きました。そのやっと分からせて頂くところから本当の御用ができるのじゃないでしょうかね。
 どうぞ。